本日は3.11から6年。いろんな人がブログやFacebookで当時のことを思いだして書くだろう。普段は自分は人がやりそうなことは絶対しない主義なので乗っかることはしないのだが、今日だけはちょっとこの6年間を振り返って、いろんなことを考えてみようと思います。
あのときから自分は生まれ変わった
自己紹介にも書いてあるんだけど、ライブドアをライブドア事件の直前の2005年8月に退社した自分は、2011年までの5年ちょいは好きな仕事だけしてプラブラ遊んでいました。週に三回も四回も海に行ったり、1年に3回もバリ行ったり。で、楽しかったかというとわりと辛かった。「誰も自分のことを必要としてない」っていうのはあまり楽しいものではないんですよ。アホな情報商材屋とかマルチとか、洗脳セミナー屋さんは「南の国で遊び暮らせます」とかいうけど、意外とむなしいもんです。このまま人生が終わるのかなとか考えちゃう。
で、3.11です。
当日はプールに行こうと準備してて震災に遭いました。東京なので食器棚から皿が飛び出したで済んだが、スーパーから食品やらガスボンベがあっという間に売り切れたのには参った。ガソリン使いたくないから原チャリで近所の商店回ってラーメンとか買ってきたが、野菜とかがなくて困りました。
一番大変だったのは計画停電。2回喰らいました。とにかく寒いから布団にくるまってiPadでダウンロードした映画見ていた。近所中が真っ暗でシンと静まりかえっていたことを思い出す。
原発から煙が出て爆発が起きたときは「こりゃ、いかん。チェルノブイリだ。日本を出るしかない」と口走った。チェルノブイリは原発本体が吹き飛んではるか上空まで放射性物質がまき散らされ、ドイツをはじめ全世界が汚染されたわけで、一瞬これと同じだと思った。すぐあとに水素爆発で建物だけ吹き飛んだと知ってほっとしたわけです。
続・福島の放射線の量を正しく理解してほしい高校生たちと一緒に、福島第一原発の廃炉作業を視察した思いとは
プロメテウスであれほど不安感を煽った朝日新聞がいまさらこんな記事を掲載とは、かなり冷静になったのかとも思うが・・・
「県内の被曝線量は、ほかの地域と比べてどれだけ高いのか」という彼らの率直な問題意識でした。この疑問を自分たちで解決しようと、県内の6高校と県外の6高校、そしてフランスやポーランドなど海外の14高校から、計216人が参加して比較調査をしました。参加者は、1時間ごとの被曝線量を記録できる「D-シャトル」という線量計を2週間着用しました。その結果、中央値で比較すると、1年間に換算した被曝線量は次の通りでした。
福島県内 0.63〜0.97 mSv/y
福島県外 0.55〜0.87 mSv/y
ヨーロッパ 0.51〜1.10 mSv/y
これらの数値は、自然の放射線と事故由来の放射線を合わせた被曝線量です。福島の高校生の被曝線量は、ほかの地域と同程度だったのです。
昨日のテレビで福島から自主避難して全国で生活している人たちは2万人というのをやっていた。彼らは家賃が全額保証されていた。しかしそれがもう打ち切られるという。まあ放射線量が通常に戻ってるのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
こちらでは3.2万人になってました。
昨日のテレビでは避難している主婦の人が「放射能が不安で戻れない」と訴えていた。いや、もう放射能数値は平常値だよって朝日新聞でさえ書いてますよって教えてあげたいが、こういう人たちは恐怖の虜になってるから聞く耳を持たない。
放射能より「福島に戻っても居住環境が整っていない」と主張する方が「放射脳か」って言われるよりずっと共感を得られるのに。でも、前向きに考えれば福島で復興に賭ける方がチャンスはあると思うんですよね。
余談だが、ぶっちゃけ教育レベルとリテラシーと能力が高く、どこの企業でも「ぜひうちにきてください」と言われる人材なら、もし災害が起きても日本中、いや世界中どこでも生活ができる。ところが地元で細々とやっていた人たちは潰しが効かないから、こういうときに本当に困ってしまう。子供に「なんで勉強しないとダメなのか」って聞かれたら、
能力が高ければ職業選択の範囲が広がるから
と回答するのが一番いいと思った。能力とキャリアがあれば、自分のつきたい職業の範囲が広くなり、逆だとずっと狭くなる。代替の効く労働者として働くしかないのであれば収入も少ないし、将来もキツい。これからの時代、なにがあるか分からなければ選択の範囲が広いほうがいいに決まってます。そして生存できる確率も上がる。
再起動からきちんと動き出しまでの過程
さて、話を自分に戻すが、3.11から1年くらいは毎月10万円くらいの寄付はしていた。が、自分の収入もがっくり減ったし預金も食いつぶした。このままでは立ちゆかないなというのがはっきりしてきた。自分の人生はまだ長いし、やれることはたくさんあると思って・・・
自分にリブート(再起動)かけることにしたのです
ところがライブドア辞めて5年も遊んでいたので、すでにIT関係とかソーシャルとかすっかり浦島太郎になっていた。ここからなんとかしないとリスタートもへったくれもない。ということで本気で始めたのがこのブログです。
関係ないけど会社のロッカーとかにいれといていざという時はこれで帰ることができる自転車とか行けるんじゃないかと思って台湾から個人輸入した、ブリヂストン名作トランジットコンパクトのそっくりさん(特許回避済み)。新品で全然乗ってないのでメルカリに出したい。
ブログって単に自分で考えてることをエッセイで書いてる分には時間もかからないが、他人の役にはまるで立たない。現在ではGoogleは「役に立つかどうか」でけっこう判断しているので、自分が考えてることをとっちらかしで書いても検索上位にはでてきません。これを逆手に取ったのがWelqで、サーチエンジンには見破れない網羅性を構築し、全く役に立たなくても「あたかも網羅しているように見える」サイトを構築したわけですね。それが肩こりは霊の仕業といわれてるになったわけです。w
本気でブログ書くということは、相当に調べないといけないということ。毎日何時間も調べてばかりいるうちに、検索が上手くなり、いろんなことに精通してきた。半年後にはじめて「バズる」という経験をすることになります。
ガラケーからスマホの怒濤の流れで割を食ったサービス 2011/7/13
これがいきなり1日3万人来ました。
【続】拝啓Facebook殿 恥汚染はSNSウイルスではないでしょうか 2011/09/11
これが51000人
ジョブズもいってた、日本メーカーがAppleに負けっ放しの理由
66000人
が、バズるのは月1程度。この程度じゃ仕事は来ないのです。はじめて仕事の依頼が来たのは翌年の1月でした。このときはめちゃくちゃ安く、ぶっちゃけ赤字でやりました。手も掛けていませんが、主にビジネスモデルの改築とネットでの情報発信でした。
WEBから実店舗への集客は本当にできるのか、具体的な実証例です(秘)
この頃にはWebの知識も元のレベルに回復し、顧客の実績を上げられる自信が明確に付きました。その後はバズら無くてもブログには検索から毎日1万人を超える流入があるようになり、おかげさまで仕事の依頼もけっこう来るようになりました。先日、「3月で少し手が空くので」と書いたところ、新規で3社の申し込みがありまして、けっこう忙しくさせていただいてます。
自分にとって3.11はなんだったのかを自問すると、「再起動するきっかけになった」という自答が帰ってきます。もう一度誰かに頼りにされたり、出会って良かったといわれる存在になりたいという気持ちを目覚めされてくれました。3.11前のダラダラとした日課にはもう戻らないし、ヨボヨボになって働けなくなるまでは頑張りたいと思うようになりました。
3.11で亡くなったひとのことを思えば、ぶらぶらなんてしていられないですよ。
そんな今日ですので、このお酒を買いました。宮城の一ノ蔵酒蔵。あとでじっくりと酔いしれたいと思います。