杉田水脈のパロディのために全文書き起こしたけどマジで支離滅裂で論理破綻していて困ったわ・・・ww こっちの文章がおかしいところは修正しきれないところです。
この1年間で「受動喫煙」がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が387件、読売新聞が102件、毎日新聞が667件、産経新聞が1026件ありました(7月31日現在)。キーワード検索ですから、その全てが受動喫煙の詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
プレジデントといった保守的なメディアは「喫煙者」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、読売新聞の影響の大きさも否めないでしょう。
最近の報道の背後にうかがわれるのは、喫煙者の権利を守ることに加えて、喫煙者への差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
しかし、喫煙者だからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達が喫煙者だったり、女友達が喫煙者だったりしても、私自身は付き合う気にもなりません。職場でも仕事さえできれば問題ありませんがほとんどの喫煙者は喫煙に多くの時間割くため仕事ができません。年間40万円の損害を与えているというエビデンスもあります。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
そもそも日本には、喫煙者の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、諸外国では、公共の場での喫煙が禁止されてきたので、白い目で見られています。タイやフィリピン、オーストラリアや英国などでは拘束され、多額の罰金を支払うケースもあります。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、喫煙についてだけは欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違う、文化だとタバコ族議員たちは主張しています。
喫煙者の当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、周囲が理解してくれないことのほうがつらいと言います。非喫煙者は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が受動喫煙に晒されると、突然死のリスクにすごいショックを受ける。
これは意識を変えることで、どうにかなるものではありません。周囲が彼ら彼女らの毒ガスを受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、喫煙者の方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。そしていままではそうでした。
保守的なメディアは「喫煙者が嫌がられること」を社会の寛容性の欠如にして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。現に年間4兆円もの医療費や損害が日本全体に出ています。タバコの匂いを嗅いだだけで入院する喘息患者もたくさんいます、
例えば、喫煙者の依存症治療のために禁煙外来に税金を使うというのであれば、国民の健康のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、喫煙者のために喫煙所を作ることに税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは国や他の国民に損害や被害を与えており、年間15000人をも殺しています。つまり「社会性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政が喫煙保護に関する施策や禁煙に反対する業界をもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
タバコと酒を一緒にするな
いままで私も依存症という表現を使ってきましたが、そもそも酒とタバコを一括りにすることが自体がおかしいと思っています。タバコは第三者に重大な健康被害を与えますが、酒には受動飲酒はありません。依存症から脱出できないのは、つらいでしょう。しかしアルコール依存症やニコチン依存症は保険が利くようになってしますし、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
喫煙はLGBTと違い、後天的な嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は都立高校で、まわりに喫煙者はいませんでした。ヤンキー高では、同級生の番長や先輩といった周囲が憧れの対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな常識を身に付け、普通に生活するようになります。マスメディアが「多様性の時代だから、喫煙者の権利も守って当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚して長生きできる人まで、「早死にしてもいいんだ」「他人を受動喫煙で殺して良いんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
プレジデントの記事で「小池都知事の「たばこ条例」に致命的欠陥」という記事がありました(2018年7月2日号)。街の牛丼屋さんは、子ども(20歳未満)の店舗への立ち入りを禁止すべきであり、重税を課すべきだ。同様に、パン屋、うどん屋、ステーキハウス、しゃぶしゃぶ屋についても同様の措置をとるべきであろう。ちなみに、タバコの63.1%は税金である。そのレベルまで課税するなら、牛丼やステーキの値段は現在の2.7倍になる。牛丼の器には「牛肉食は、あなたにとって大腸がんの危険性を高めます」「白米食は糖尿病の危険性を高めます」「人により程度は異なりますが、炭水化物により白米食への依存が生じます」と大きく明記する必要も出てくる。
それこそ世の中やメディアが喫煙者の権利と騒ぐから、「喫煙者の権利を守れ」というジジイが出てくる。ジジイはボケる不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
最近の報道でよく目にするのは、喫煙所の設置です。例えば、「たばこ規制で路上喫煙増える? 都、屋外喫煙所には補助」(2018年6月28日、朝日)。喫煙者に対応するために、屋外公衆喫煙所の設置費を区市町村に全額補助する考えを表明。02年から路上喫煙を禁止している千代田区は、屋外の用地確保が難しいとし、補助金で空き店舗などを公衆喫煙所に改修して喫煙所拡充を目指す方針だ。というものです。飲食店も喫煙室を設置するところが多いようです。こうした試みも「喫煙の自由を守るのはいいこと」として報道されています。では、コストはどうなるのでしょうか。自分が喫煙しなくても喫煙者のコストを料金に上乗せさせられることがいいことになるのでしょうか。
実際にフィリピンのデュテルテ政権下では2017年7月に、「今月末から国内の全ての公共の場所で喫煙を禁じる」という大統領令を出しました。麻薬の次は喫煙だと、喫煙者の多いフィリピンでは大混乱になりました。電子たばこを含む喫煙は換気設備がある指定された屋外の場所もしくは室内のみで許容され、これらの場所に18歳未満が立ち入ることは禁止されました。
2018年になって、この通達は粛々と実行されています。しかし、逮捕されると月収の半分くらいの罰金。麻薬に適用されたので、タバコにも適用されたのです。どんどん逮捕されるので、現地日本人は大混乱です。
最近は紙巻きたばこに加えて、加熱式とか、高加熱式とか、もうわけが分かりません。なぜ禁煙だけではいけないのでしょう。
オーストラリアやニュージーランド、イギリス、アメリカなどでは、子供を同乗させた車で喫煙すると逮捕することができます。タイでは電子タバコを持っているだけで逮捕され100万円の罰金。喫煙者にとってはもう冗談のようなことが本当に起きているのです。
多様性を受けいれて、受動喫煙も認めよということになると、自分の家で吸うことの容認だけにとどまらず、例えば自分の子供に受動喫煙させるのは勝手だ、病院や学校での喫煙を認めろ、それどころか、大麻や麻薬を解禁しろいう声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちがたくさんいます。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
「喫煙の権利」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。プレジデントが「喫煙援護」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
「他人の迷惑」や「他人を傷つけることは人間として恥ずかしい」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
オマケの陰謀論「日本の喫煙習慣は戦後、一気に広まった。これは旧ソ連のコミンテルンの仕業であり、日本人の健康を損ね、莫大な医療費がかかるようにして年間4兆円もの損害を出させることに成功している。コミンテルンは政治家をヤク中にして抱き込み頑強に抵抗させている。」